東京から高速バスに乗り、岐阜県図書館にて開催中の小島信夫展に行ってきた。
同じ岐阜出身の作家、堀江敏幸氏による講演「小島信夫の作風について」に参加。それにしても会場である多目的ホール内が寒すぎる。極寒である。まずは青木健氏が本日の講演者である堀江氏を紹介する。雑誌で実現した小島×堀江対談では、岐阜市出身の小島信夫が西濃代表で、多治見市出身の堀江敏幸が東濃代表といった様相だったらしい。また、生前の小島氏は堀江氏の作品が各文学賞を受賞するたびに「あの人は"賞男"だね」と嬉しそうな顔で話していたそうだ。原稿を用意してしゃべることに対しての違和感を宣言することから講演はスタート。「何を話そうかあらかじめ考えておくということは、ある意味小島さんに対する裏切りでもある。思いつくままに話し続ければ、いずれ『小島信夫の作風について』というテーマに繋がっていくかもしれません」。そう堀江氏は静かな口調で話す。
明大理工学部の教員時代のエピソードと小島組の存在。その小島組の中にかつて「小島さんは雑談できない人だ」と語った人がいたらしい。つまり、会うとすぐに文学の話をする人だった、と。小島さんの話を聞いただけで、まるで自分が小説を書いた気になってしまう。そう思わせる不思議な力があるのだという。また、堀江氏は自ら「小説家」という肩書きを名乗ったことがないらしい。「作家」という言葉との違いについては詳しく語られなかったが、自分は広義の「物書き」であるという認識だろうか。小島信夫のように本質的な「小説家」を前にして生まれた、ある種の謙虚さのような感情がそこには含まれているのかもしれない。
芥川賞の話題へ。僕は知らなかったのだが、芥川賞候補にノミネートされる段階で、作家本人に「候補にしますがよろしいでしょうか」と確認の連絡が来るのだという。堀江氏は「熊の敷石」で第124回芥川賞を受賞したわけだが、岐阜出身者では小島信夫「アメリカン・スクール」以来、40数年ぶりの快挙だったそうで、その件について小島氏のもとにも取材が舞い込み「ご迷惑をおかけした」と堀江氏は述懐する。そして芥川賞受賞記念パーティーに御大・小島信夫が出席するということになったのだが、そのとき5分程度、立ち話をしたのが堀江×小島の初対面であった。小島氏は壇上で多治見のうどん屋がいかに卑劣で不親切かという話を延々と30分以上語り続け「そんな多治見出身の堀江さんはとても良い人である」と結んだ。このスピーチの場面は小島信夫晩年の名作「各務原・名古屋・国立」にも登場するのだが、堀江氏はてっきり録音したテープから文字起こしして引用するのだろうと思っていたらしく、実際に掲載されたものを読んでみると、書いてあることが実際と全然違う。しゃべっていないことも書いてある。これはいったいどういうことなのか。しかし、動揺する堀江氏の一枚上手を行く小島氏は、なんとその小説の中で長々と引用したスピーチの内容について「虚構化」を宣言してしまう。これらのあらましについては、「水声通信 -小島信夫を再読する-」に堀江氏が寄せた論文の中でも言及されていたと記憶する。車谷長吉の例を挙げるまでもなく、モデル小説やメタ小説という分野には常に他人を傷つけてしまうリスクがあり、最悪の場合、訴訟問題に発展してしまうこともある。かつて小島信夫の周辺でも個人レベルのイザコザがあったそうだが、堀江氏は「登場人物として作中に描かれるのは、こんな感覚なのか」と、いたく感動したという。
堀江氏の講演は進む。「5分間の立ち話」から月日は流れ、いよいよ1対1での対談が実現することになり、小島氏の地元である国立の鰻屋がその対談場所に指定された。堀江氏はタクシーに乗り、目的地を目指すも、運転手から「行きにくいところだからここから歩いて行け」と言われ、車から降ろされてしまう。ようやく鰻屋に辿り着き、対談がスタートした。対談を終えてから食事という流れが通例なのだが、小島氏の希望で食べながら対談ということになった。フルコースである。小島氏はとにかくよく食べ、よく飲む。堀江氏も負けじと頑張るがとても追いつけない。そのようなハイペースゆえ、1時間と経たないうちに小島氏には酔いが回り、まともに喋ることができなくなってしまった。雑誌の対談コーナーを埋めるには尺が足りない。小島氏いわく「あとはまかせた」。これは換言すれば「言ってないことを書け」ということである。堀江氏は多分にフィクションの要素を書き足し、なんとか原稿を仕上げることができた。
そのときのエピソードを思い出しながら堀江氏は次のように語る。小島氏の「あとはまかせた」も作風である。実は酔いつぶれる前に重要なポイント、対談の本質はしっかりと語り尽くしている。「あとはまかせた」は一見投げやりなセリフのようだが、実は先々まですべて見通しているんじゃないか。つまり、堀江氏がどれほど腐心して原稿をまとめ上げるのか、最終的にどのような記事が完成するのか「試して」いたのかもしれない。そういうコワい部分が小島氏にはあった(このときの対談の模様は雑誌「新潮」2002年5月号に、「われらが『小説』作法」というタイトルで掲載されている)
小島氏は堀江氏に対してアドバイス(のようなもの)を与えている。書くことが浮かばなければ「リアルタイムの出来事」を書いて虚構に入り込ませればいい。例えば、原稿を取りに来た編集者の足音が家の外から聞こえてきたことを書けば、その場で3行くらいは埋まるだろ、と。言うまでもなく、執筆に際して入念な「準備」を行う作家は多い。だが小島信夫はそのような方法をとらなかった。「あらかじめ考えて書けることなんかないんだから」「第1章はコレ、第2章はコレ、という書き方をして君は楽しいか?」
果たして若い読者は小島信夫の「創作の裂け目」を読んでいるのではないか。ここで堀江氏は連作短編集「ハッピネス」に着目する。収録された「モグラのような」という作品(※発表時タイトルは「挨拶」)では、今月は何も書けない、と作者自ら小説に書いてしまった。ここで現実が虚構に入り込んできて、創作の裂け目が生まれている。また「ワラビ狩り」という作品(※発表時タイトルは「ある日、町を出て」)は、やがて変形して「別れる理由」の中の1エピソードとして取り込まれていく。「別れる理由」は12年間に渡って文芸誌に連載された原稿用紙4000枚を超える大長編であり、世界文学史的に見ても稀有な作品のひとつであるが、「ハッピネス」に収録された作品は、短編に収まり切らずにやがて「別れる理由」へと移行するのだが、それは同時に「別れる理由」誕生前夜の初期微動とも言える。
まったく淀むことなく話し続ける堀江氏。次に「季刊藝術」創刊号に掲載されたアメリカ抽象画についてのシンポジウムを引き合いに出す。そこでの小島信夫の発言は「オオキイですよね。その大きさは文学に引き寄せてみるとわからなくもない」といった漠然としたもの。他の参加者がマクロだのミクロだの小難しい話をしているなか、すべて自分のフィールド(文学)の話へ引き寄せて展開させてしまう。文学における拡大・縮小という概念。小島信夫はミクロの事柄を拡大して書く。それ自体はもう抜群に面白い。だけどそこからいったん離れて、少し「引き」で見渡してみると、途端に何が書いてあるのかよくわからない。全体の中でどの位置を示しているのか判断できなくなってしまう。我々が小島信夫の小説を読むたびに何が書かれていたか忘れてしまうのは、この歪んだ「遠近法」が読者を困惑させるからではないだろうか。
しかし、ここで僕はふと思う。小島信夫という作家は常に「ぜんたい」を書こうと試みた作家ではないのか。「引き」で全体を俯瞰したときにわけがわからないのでは、それは作者の意図と反するだろうし、もっと言えば小説として破綻しているのではないだろうか、方法論として間違っているんじゃないか、と。しかし堀江氏は次のように言うのである。「成功したかどうかはわからない。小島さんはそういうやり方で書いただけなのです」。
さらにそのシンポジウムの中で小島氏は「余る」という感覚についても触れているらしい。「最近書きたいと思うことは『余る』ものばかり」「余った部分を余っていないように書くのが小説家の責任というものである」といった発言からは、初期作品からの作風の変化と、創作の裂け目ともいうべき部分が発生していることが読み取れよう。前述の「ハッピネス」と同様、この対談にもやがて来るべき「別れる理由」という地殻変動に向かう兆候が表れている、と堀江氏は分析する。
現在、小島信夫文学賞の選考委員を務めている堀江氏だが、生前の小島氏が「俺が死んだらあいつ(堀江氏)に回せ」と言ったとか言わないとか。堀江氏は「死せる小島、生ける堀江を動かす」と呟き、今回のテーマである「小島信夫の作風」についても、拡大・縮小や遠近法など、これからさらに考えていく必要がある。また、そのように考えさせるのが小島氏の目的なのかもしれない、と結んだ。
※講演の模様は翌日の岐阜新聞に掲載された。
→「芥川賞作家・堀江敏幸さん、小島文学の魅力語る」
講演会が終わり、企画室の小島信夫展をじっくり観覧した。ちくま文庫の「チェーホフ全集(5)」の表紙に、小島信夫本人が鉛筆で"秀作"と書き記していた。この文庫に収録されている「廣野」という作品を小島氏は「小説の楽しみ」の中で絶賛している。その他、おびただしい数の付箋や傍線や挟み込まれたメモが鮮烈に印象に残った。小島氏から保坂氏に宛てて出されたハガキ(2004年)が追加展示されていた。どうやら展示開催後に保坂和志氏から提供があったようで、目録には記載がない。「別れる理由」最終回の原稿と封筒を見ると、封筒には鉛筆で宛名が書かれていた。これが12年続いた歴史的大長編のラストシーンの裏側かと思うと、思わず吹き出しそうになってしまう。書見台には生前最後に読んでいたと思われる「同時代」(第3次・第20号)が、そのままの状態で置かれていた。