
講談社 2005年3月(初版・署名)
現代日本文学の最高傑作か、天下の奇書か!こんな破天荒な小説は見たことがない!毀誉褒貶の激しい小島信夫の家族小説『別れる理由』。刊行から二十余年、初めて本格的に論じられる根源的で異様な作品世界の全貌。 (帯)
今年6月5日に読み終え、もう一度じっくり読みはじめ、7月16日に2回目の読了。いまだソース元となる「別れる理由」を通読していない僕が、この種の作品論に目を通してしまうことついては多少なりとも複雑な気持ちがあった。ネタバレは回避できない。本来ならば「別れる理由」を通読してから読むのが正しい道筋ではないだろうか。そういったすっきりとしない心持ちを抱えつつ読み進めることになったのだが、この画期的な評論はいわゆる「虎の巻」でも「副読本」でもなく、さながら20年後の続刊「別れる理由IV」のように僕には感じられた。江藤淳の「自由と禁忌」によって、この大長篇小説をコンパクトに知る手がかりを与えられ、同時に「読む必要のない小説」であるという先入観を植え付けられてしまったと、著者である坪内祐三氏は述懐する。僕はまさに「『別れる理由』が気になって」によって、この化物小説をコンパクトに知ることができた。そして、原典を読んでいない読者には「答え合わせ」の楽しみが残されている。
坪内氏は講談社文芸文庫で小島信夫の著作を購入し、図書館にも行く。「正直に言おう。私は小島信夫のさほど熱心な読者ではなかった」と早々にカミングアウトする。彼は高名な「評論家」であるが、それ以前に僕たちと同じ「読者」であった。それにしても氏のような「読者」に読まれ愛される作品は幸福であるし、小島信夫も作者冥利に尽きるのではないだろうか。しかし「別れる理由」が不幸だったのは、リアルタイムの物語でありながらリアルタイムで批評されなかったことにあると分析する。あの江藤淳ですら連載中は「別れる理由」をスルーしており、単行本化された段階で初めて通読したらしい。坪内氏は江藤淳の鋭い文学的感性を認めながらも、きちんと「読まれていない」箇所については、容赦なく異議を唱えていく。
また、完結までに長い時間がかかった作品の一例として志賀直哉の名作「暗夜行路」を挙げ、「別れる理由」との違いを解説する場面が印象的であった。「暗夜行路」は一種の教養小説であり、小説世界の時間と執筆に費やされた現実の時間はお互い影響することはないという。それに対して「別れる理由」については「リアルタイムに近い時制で物語が展開して行く(小説世界が動いて行く)『別れる理由』は、その外部世界の時の経過の影響を受けながら、小説が、中途からはその定型を越えて、増殖して行く。いや、停滞して行く」と述べている。この「暗夜行路」との対比は実に有効で、明瞭かつ雄弁に「別れる理由」の本質を言い当てている。さらに「増殖して行く。いや、停滞して行く」という微妙にねじれたセンテンスも興味深い表現だ。
僕は小島信夫の小説を読んでいると、しばしば誰の発話か把握できなくなることがある。坪内氏は錯綜する言葉から主体を丁寧に読み解き、僕たちにわかりやすく説明してくれる。さらに、長大な物語のハイライトと併せて「難所」をしっかり教えてくれる。主人公の「夢くさい」世界が始まる第59章以降、登場人物が他者へと変容を繰り返しながら会話を続ける第60章以降と、第93章から第115章までが、通読を試みるたいていの読者が置いてきぼりになる難所とのこと。ただ目で文字を追うだけになりそうなそれらの箇所を精読し、解釈を加えて論じることは、並々ならぬパワーが必要だったはずだ。事実、ときおり連載を続けることが難儀であることを吐露する場面もある。しかしそれでも彼が連載をやめなかったのは、小島信夫が2003年1月に発表された短編「青ミドロ」内で、「『別れる理由』が気になって」について言及した一件が大きく影響しているようだ。「私は坪内さんが待ち遠しい、という思いもあります」と小島信夫に言われてしまったら、それはもう中絶するわけにはいかない。それにしても、「『別れる理由』が気になって」連載中のリアルタイムな時制にまで"小島信夫"が参入してくるとは、なんとメタ的な評論だろう。
ふと思い出したのだが、高橋源一郎は著書「文学なんかこわくない」の中で、「小説を論じるためには、元の小説の少なくとも二倍、概ね三倍以上の原稿量を必要とする」と書いていた。その驚くべき内訳は「元の小説+感想+もうひとつの小説」=「元の小説×3」。これが、小説の評論の唯一の「正しい」あり方なのだと断言し、その方法論を実践した数少ない例として挙げられたのが、小島信夫の「漱石を読む-日本文学の未来」であった。やや長いパラグラフになるが、高橋氏の論を引用する。
小島信夫という人は「漱石を読む-日本文学の未来」という本で夏目漱石の「明暗」を論じた。小島信夫という人は、「明暗」を最初からどんどん引用した。それから、それについて、どんどん論じた。しかし、いくら論じても止まらなくなっちゃった。(中略)そうこうするうちに、止まらなくなって、途中から小説になっちゃった。そういう具合に暴走して、「明暗」に戻れなくなって、他の作品を論じたりもしちゃった。その結果として、それは元の「明暗」より遥かに長い評論に、まるで弁当箱みたいにでっかい本になっちゃったのである(昔のいわゆる「ドカ弁」ね)。そして、「小島信夫、ボケちゃったんじゃないの」とか「面白い本だけど、長すぎる!」とかいわれた。だが、とタカハシさんは思う。あの本の唯一の欠点は、あれでも短すぎることなのだ。もちろん、小島信夫という人はそのことを重々承知しているはずなのである。
よもや「別れる理由」について、高橋源一郎氏の提唱する「×3方式」を実行しようとする人はいないだろう(死んでしまう)。しかし、この「『別れる理由』が気になって」という評論における坪内氏からは、まさにその領域に近づこうという気概が感じられるのである。初出は「群像」2002年5月号、7月号~12月号、2003年4月号~2004年3月号。